No.281 10月号編集後記

 去る9月17日、100周年を迎えた我が母校・岩手県立盛岡視覚支援学校の記念式典に出かけました。
 No.280の表紙写真で紹介した宮崎県立明星視覚支援学校同様、ここ2、3年の間に100周年を迎える盲学校がほとんどだと思います。そして、共通して言えることは、創立者は私財を投じた当事者であったということです。

 母校・岩手盲は1911年、失明軍人柴内魁三氏が「自分のことは自分で」「空を仰いで歩こう」を校訓に、盲ろう唖生18名で私立盲唖学校を創立。1948年盲ろう分離、翌年晴眼教師の大堂他人氏が2代目校長に就任し、71年退職。以後、現校長の千田光久氏まで40年間で14人の校長が就任しています。卒業生は約1200名です。
 私が在籍したのは50年4月〜54年3月までの4年間です。生まれは旭川市に近い農家で、旭川盲唖学校に入学。仲間同様、何の抵抗もなく鍼灸按摩一辺倒の職業教育の中等部に進みました。ところが、医学や実習は私には難しく、関心も興味も湧きませんでした。若気の至りで盲人イコール按摩という社会の先入観に反発して、 「僕にも職業選択の自由があるはず」と仲間・先生・家族に訴えても、 「じゃあ何ができるの?」と問われ、落ち込むばかりで、3年余、今でいう不登校児で悶々の生活を送りました。これを救ってくれたのが大堂校長です。前日、96歳の先生の奥様をお見舞いした折、「大堂も今年が生誕100周年です」と聞かされました。

 盲ろう唖の義務制が施行され、1949年札幌に新制の盲学校ができるということと、盲人に大学進学の道が開かれることや、仲間がどんどん社会自立していくのを耳にして、焦りを感じ、藁をも掴む思いで札幌盲に入りました。しかし、制度が新しくなっただけで、学校の雰囲気は旭川時代とそっくり。舎監長に何度となく、私の苦しみをぶつけていました。舎監長は「あなたの目標探しにつきあってくれるのは岩手盲の大堂校長しかいない」と言われ、手紙を書きました。校長からは「本校は三療の伝統校で歴史も古い。そんな中でも、目標に向かってぶれずに進めるという強固な意志があるのなら、学校をあげて応援しよう」という手紙をもらい、岩手盲に編入しました。
 1年かけて、校長をはじめ先生方と目標探しの話し合いを続け、やっとジャーナリストという目標が決まりました。学校は高等部に普通科を設置。井の中の蛙にならないよう、近くの盛岡一高定時制の聴講生として通学することも認められ、進学環境はできました。しかし、大学受験では日大の法学部に願書を出したところ、不受理で戻って来ました。その夜、大堂校長と夜汽車で上京して、大学と交渉しましたが一進一退。偶々点字の研究で知られていた文学部教授の計らいで、社会学科に願書を出し直し、点字受験ができました。
 大学の4年間も、記者を夢見て私なりに努力しましたが、点字毎日に定員枠がないとして、2年の就職浪人を経て、毎日新聞点字毎日の記者として就職。旭川盲の同級生より13年遅れての職業自立でした。

 その後50年余、このように歩いてこられたのは大堂校長をはじめとする岩手盲の先生方のおかげです。今盛んに言われている「一人ひとりの適正と個性にあった支援教育」を先取りしたのではなく、当たり前のこととして私を育ててくれたのです。特別支援教育の名の下に財源優先で、障害種別校名を廃止して、校舎を同居の方向に進めていることや、地域の学校に盲児が在籍するのが当然といった制度づくり。しかし、その子の未来をも見据えて、点字、歩行、着脱などといった専門教育を施す教師が配置されるという保障は誰がするのでしょうか。(編集長 高橋 実)

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