No.322 3月号編集後記

 私は1月24日「東盲を語る会」で尾関育三さんが「大学進学」 について話されると聞いて出かけました。
 尾関さんは1951年、 国立では初めて点字入試を行なった東京教育大に弱視の村中義夫さんとチャレンジし、特殊教育学科に合格しました。院を修了後、母校の附属盲に非常勤で採用され、その後数学で正採用されました。
 1990年からは大学入試点訳事業部で活躍されました。私はその事業部のなれ初めを聞きたかったのですが、質疑応答で盛り上がり、時間切れでそれは聞けませんでした。しかし同校の同窓会主催とあって、参加者の大半はこの世界に名の知れた人ばかりでした。質疑応答では先生や生徒の名前が飛び交い驚きでした。
 視覚障害者に大学の門戸が開放されたのは1949年で、その年同志社、日大、早稲田で盲大生が誕生しましたが、点字入試は同志社のみで他の2校は夜間部で編入でした。
 私は1954年日大に進学しましたが、附属盲のNさんと別室で点字受験でした。Nさんとは岩手盲で一緒でしたが、いつの頃までか進学するなら附属盲と言われ、Nさんは附属盲高等部に転校しての受験でした。私は進学して全点教問題で附属盲の高校生らと出会い、気迫と気力に圧倒され附属盲では自滅していたと思いました。
 ところが今回の質疑を聞いて「大学は出たけれど」とか「盲大生よどこへ行く」などの揶揄の根源は附属盲の功成り名を遂げた先生方にもあったのではと感じました。「大学は出ても就職はない」「理療の資格をまず取れ」「理療の牙城は東盲だ」などという先生が附属盲にもいるなど思いもしませんでした。
 私たち文月会はなりふり構わず社会に「大学の門戸開放」「職域拡大」などを訴え一定の成果を収め、1991年運動に終止符を打ちました。それまで附属盲は組織として関わってもらえなかったことを歯がゆく思った私でした。(編集長 高橋 実)

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