No.324 5月号編集後記

 私のふるさとは北海道で、二十歳まで過ごしました。その北海道で今春、私の心に残ることが2つありました。
 1つは本誌新年号の表紙写真で紹介した池田サラジェーンさん(24)が、4月から地元の函館商業高校の音楽教師として教壇に立ったことです。彼女は函館盲から附属盲を経て札幌大谷大学芸術学部音楽学科をこの春卒業しました。昨年夏、北海道教員採用試験にチャレンジしての喜びです。サラジェーンさんは第16回全国童謡歌唱コンクール子ども部門銀賞、第18回同コンクール金賞のほか、ピアノでもいくつかの賞を取っています。当センターが2005年、札幌で開いた「競い合い、助け合う コンサート」にも出演して、その折も「音楽の先生になって歌を教えたい」と夢を語っていました。私の知る限り、普通校で盲学校卒の視覚障害音楽科教師は栃木県の南沢創さんに次いで池田さんが2人目です。全国の67盲学校中、音楽科生は大阪府の高3に1人、附属の高等部と専攻科にそれぞれ5人ずつの11人です。この生徒らを含めて未来に夢が持てるような盲学校作りを関係者は忘れないでいただきたいものです。

  もう一つは北海道高等盲と札幌盲が統合して北海道札幌視覚支援学校がスタートしたことです。またも二つの盲学校の名が消え視覚支援学校の名が1つ増えたということで、せめてもの救いは「特別」が付されなかったことと、義務教育の旭川・帯広・函館は従前通りだということです。
 母校の一つ岩手盲が校名を変更した折も本欄で「校名変更で未来は夢より不安がつのるばかり」と書きました。私が高等盲にこだわるのはそのルーツが私の入学した札幌盲だからです。1948年、盲ろう教育の義務化で市内南三条に札幌盲が新設されました。それを知った私は藁をも掴む思いで1949年、札幌盲中1に入学しました。
 それまで盲学校の職業教育は理療一辺倒で、私は旭川盲の中等部で医学や理療の実習を習っていましたが14、5歳のせいか授業についていかれなかったのでしょう「僕は理療が苦手だ。見えなくても職業選択の自由がある」などと訴えました。「その上なにがやりたいかも分からんではわがままにすぎない」と家族も先生も仲間も問題にはしてくれませんでした。
 私は自暴自棄に陥り不登校3年余、悶々の生活を送っていた時です。札幌盲は旭川盲と違って私たちが上級生ですから、年齢も若く活気もありましたが未来を語る雰囲気はありませんでした。生徒は「どうせ見えないんだからあん摩しかない」と割り切っていたのかもしれませんが、私にはおののきの日々でした。
 そんな中で私の心うちを聞いてくれるのは舎監長の女先生だけでした。家庭科で厳しく、生徒からは排斥運動が起こり、その後異動されたそうです。私は機会あるごとに舎監長を訪ね「理療以外の仕事探しで入学した。なにが僕にできるか分からない」と訴えました。そんなある日先生は「君の立場に立って目標探しをしてくれるのは岩手盲の大堂校長しかいない。相談しては」とサゼッションしてくれました。「本校は理療の伝統校だ。その中で強固な意志を持ち続けられるなら学校あげて君を応援しよう」という何回目かの校長の手紙で年度末に転校しました。その折教頭からは「新設校から転校生を出すのは困る。留まるように」言われ反発したことを覚えています。その後同校は移転したり小中分離して北海道高等盲として歴史を刻んできたのだと思います。

  また教頭が言われたように何年後かに三条時代の生徒数人が岩手や宮城に転校しています。その後有志が「三条会」を作り毎年集まって往時を偲んでいましたが、今は参加資格を広げ「6・1会」としてやはり年1回の交流会を続けており、その時期が今年も近づいてきました。 (編集長 高橋 実)

324号目次に戻る

[ホームページへ戻る]