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2002年9月7日発行 第35号 社会福祉法人視覚障害者支援総合センター

支援センターだより

皆さまへ

 9月に入っても残暑は厳しいようですが皆さまいかがお過ごしでしょうか。東京の今夏は例年にない猛暑で私など24時間クーラーのお世話になっていました。それに引き替え北海道は例年にない涼しさで真夏でもストーブを焚こうかという冗談さえ飛び出す気温です。家内の兄弟は大分県宇佐市を中心に7人とその連れ合いも含めて健在なのですが、私の兄弟は7人中1、2、6、7番目と連れ合い2人が既に亡くなっています。次子いわく「九州はなまけもので北海道は働き者だからね」だそうです。それはともかくとしてすぐ上の姉が入退院を繰り返しているため、見舞がてら去る15日から3泊4日で出かけました。
 滋賀県にいる甥っ子1人を除いてすべて北海道ですから年に1、2回冠婚葬祭か仕事で出かけますが、ほとんど1、2泊です。今回は京都にいる仕事大好き人間の娘の家族4人を誘ったことから層雲峡と札幌でホテルを利用しました。そして友達のはからいで小学部の旭川盲、中学の札幌盲、高校の岩手盲時代の仲間で札幌に来られる人たちが集まり、楽しいひとときを過ごすことができました。

 席上懐かしいことをたくさん聞くことができました。中には「そんなぁ」という事実もありました。3点だけ書きます。1つ目は「小鳥が嫌いだった私に実さんは小鳥だよーって押しつけたりして嫌がらせをされたわ」と小学部時代の元女の子から指摘されたことです。小学部の5年間は自他共に認める腕白そのものでしたから「それもありなんかなぁ」と思いました。そのいたずらで思い出したのですが、それこそカラスの鳴かない日はあっても実さんが叱られない日はないといった小学部時代、こりもせず説教、往復びんた、バケツをもって立たせる、とじこめる、あげくのはては食事を差し止めるなど、罰を一手に引き受けておられた、私の担任で舎監長だった女の先生が医師の外出許可が出ないといって来られませんでした。20数年前に旭川での囲む会には来られて「実さん、立派になってうれしい」と泣いておられましたが。それ以来、お目にかかっていません。できるだけ早い機会にお見舞いに伺うつもりです。

 2つ目は中学の数学の先生(80歳)が「社会人の高橋君を入学させるにあたり職員会議ではいろいろあったが、いざ授業が始まると高橋君のおかげでクラスが活気づいたことを覚えている」と言われました。確かに私の入学では相当議論されたということを聞いていましたが「活気づいた」ということは初耳でした。

 3つ目は「高橋さんがハーモニカによる青い鳥バンドを作り、1000人以上の聴衆を前に演奏したことを忘れることができない」と何人かから言われて思い出しました。10数人でバンドを編成し「歌の翼に」がテーマソングで、練習は私がカスタネットを振るかメトロノームを使って特訓をしました。お断りするまでもなく私が音楽に精通しているということではありません。多分当時の仲間が私をたててくれたのだと思います。もちろんそのころはガキ大将を卒業していましたから、いじめや脅しでバンドを作っていたわけではありません。いずれ機会がありましたらまた書きますが、札幌盲の記念事業で文化会館で入場料を取って催したものです。今も覚えているのは、学校をあげて放課後手分けしながら1軒1軒まわってチケットを買ってもらったことです。その折り「今台所の方にも来ていますよ」と言われ、苦笑したことを記憶しております。

 岩手盲に移ってから札幌盲の後輩10人前後が岩手、宮城、大阪府に転校しました。私が「岩手に変わります」と教頭に申し出た折り、「新設校に転校の道をつけたくないので思いとどまってほしい」と言われたことがその時になってようやくわかりました。また、岩手と札幌の生徒有志で青い鳥会を作り、野球試合など交流行事を繰り広げたり、日点の本間一夫先生の「点訳のしおり」を転載しての機関紙発行もしたりして、盲学校間で親睦をはかったことも忘れられないことです。

 岩手盲普通課は1年目は2人でしたが、2年3年は私1人でだだっぴろい教室でした。随分の学科は理療科と同じでした。席上昔女の子が「私と誰々さんとで実さんの教室当番をしました…」と披露されました。「いじわるをされた」という話の後でしたから、皆さん「さんは女の子を脅迫して」と思われても困るなぁと思った瞬間、彼女は「それは先生と生徒会とのきまりでです」と付け加えてくれましたのでほっとしました。

 前科もたくさんある私ですから「大学時代の友達がいたら大変なことになったのかも」と思いました。この日は男女ともに65歳以上の大人ばかりでしたから私のように人を傷つけるようなことは口にせず、ただ酒宴をもりたてることで終始していたことに頭が下がりました。

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大手4ホテルでのバリアフリー

 特に最近バリアフリーという言葉を耳にします。それほどに社会の関心も高まってきているのだと思い、嬉しく思っています。前の方で書きましたように6人で北海道に出かけた折、層雲峡で家内が子供に引っ張られ膝をついたとかで、すっかり直るまでには1月くらいかかるそうです。ですから出かけていて鉄道であの駅はエレベーターやエスカレーターが上りしかない、あそこは下りしかない、何にもないということを言いながら、あるところではフルに活用しています。私たちはこれほどエスカレーターやエレベーターを意識したことはありません。情けない話ですが、全ての駅に上り下りの設備をしてほしいものです。

 私がリードで改めて大手ホテルと書きましたのは、普段安いビジネスしか使っていませんので設備面では無いものがあってもこんな物までという物もありませんし、狭い部屋ですから説明してもらえればわかります。しかし大手ホテルは系列で「きれい・広い」と子供たちが騒ぎ回っていたように、オーナーやその関係者に理解し関心を持ってもらわなければ広がるものではないと思います。

 6月は日盲社協で徳島のホテルに3泊、8月は全日盲研で福岡のホテルに2泊しました。いずれも豪華でした。ただ1カ所はバスルームと部屋の段差が30センチあるというもので、特に部屋に出るときには怖さを感じました。ウォシュレットのボタンは4カ所とも位置が違いました。昨年でしたかフロントにサインを付けてくれるようにお願いしましたところその会社は倒産していますという返事で、二の句がつげませんでした。

 今回の4つのうち、2つは洗剤の容器が洗面所に3つ置かれていました。区別が付きませんので「もしかしたら」と点字シールにシャンプー・リンス・ボディと書いて持参しましたら、案の定同じで、それを貼り付けておきましたら、2日目もそれに中身が追加されていました。また後の2つはシャワーの蛇口をかけてある下の方に3つボタンを押せば使えるという具合になっていました。それにシールを貼るわけにもいかず、頭に畳み込んで利用しました。このように総論で理解されていても、個々のものになるとまだまだと思った私です。

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全日盲研福岡大会に参加して

 去る7月31日から3日間、福岡高等盲などの主幹で開かれた第77回全日本盲学校教育研究大会(全日盲研)に参加しました。私の場合は、全国盲学校普通教育連絡協議会(普連協)総会とセンターが自主製作している啓発図書とイメージ商品の展示即売が主目的です。

 点字毎日在職中は当然全般的な取材もでしたが、1954年以来サイドワークとして取り組んでいる視覚障害者の大学の門戸開放と、全国の盲学校が抱えている進路問題との関わりを模索しながら、運動の進展につなげたいという思いから出かけていました。
 しかし時代の趨勢と盲教育関係者の理解が深まり、門戸開放や入試点訳の中心は私たち外郭団体から盲学校に移りました。その具体的なものとして、入試点訳については1990年10月全国高等学校長協会に入試点訳事業部が設置され、私の先輩尾関育三さんが中心になって全国的なフォローがなされています。

 門戸開放のネックの1つが入試点訳問題でした。大学によってニーズもまちまちで、透明性と公平性を確保するために点訳や墨訳は盲学校教師ではまずい、公的施設の職員でなければいけない、ボランティアでは秘密厳守を強要できないし、責任は問えない、などと少々無理な要求も「門戸開放につながるなら」と対応していました。そのようなこともあって、1974年から幾度か、文部省に対して「入試並びに学内試験などの点訳作業を日本盲人福祉研究会(文月会)に委託するように」申し入れていましたが、「法人格のないところには委託できない」ということの繰り返しでした。

 1980年代前半までの普連協総会のメインテーマは進路問題で、「受験拒否」「点字受験者の試験時間延長」「入試やテキストなどの点訳問題」など大学に関することが数多くの学校から投げかけられ、その対応策に時間が割かれていたように思います。しかし最近は進学問題は型通りと言いますか、余り時間が取られないように思います。少子化と大学側の事情もあってか門戸開放はそれなりの成果を収めてきたのだと思います。とはいえ私たちがねらっている、視覚障害を理由に向学心をそぐようなことのないよう、あくまでも全ての大学が全ての人に受験の機会を与えるという状況には、残念ながらまだなっていないことだけは確かです。それとともに大切なことは、思う存分勉強ができるような環境と卒業後の職域確保だと思います。

 私たちの運動の中で国民的な世論をバックに取り組みました「点字による国家公務員試験の実施」も、1991年以来1種、2種にそれぞれ点字での挑戦者がいましたが、今年度はゼロです。私は残念に思えてなりません。当センターが1993年から発行しつづけてきた国家公務員、地方公務員、教員採用など各種試験問題の点字版を、今年度取りやめたことにその原因の一つがあるとすれば考えさせられます。

 ここで責任を転嫁する弁解めいたことを申し上げるつもりはさらさらありませんが、実態として試験問題に限りませんが、学術専門書などセンターが手を染めている点字書は、例外を除いて1点から3点まで出れば御の字で、採算どころか赤字です。私は以前から「公務員試験問題集だけでも公的助成をしてほしい」と厚労省などに働きかけてきました。理由はともあれ結実していません。

 私が今そのような助成制度を設けよ、というのであれば「この時期」と言って実現も難しいのかもしれません。1950年代に制度ができて今も大手2施設がこの恩恵に浴しながら点字出版をしています。その中に「試験問題集」を入れてほしいと言っているだけなのです。そのように国にはSOSを発信し続けていましたが、センターの「限界」として取りやめました。ただ今春1、2の方から「問題集を出してほしい」という要望が出ておりますので国の対応のまずさとセンターの赤字を増大させることなどから、目下どうしようかと苦しい選択を迫られております。

 話を普連協総会に戻します。ここ数年は高等部の点字教科書製作問題がクローズアップされています。センターも職員のプライドが持て、比較的安定している「点字教科書作り」に参加させたいと思っていることから、ノウハウを勉強しようと思い真剣に聞いてきました。今年は盲学校のセンター化と関わって教育相談、通級指導の問題が論議されていました。
 また総会で「比較的障害程度が軽い盲重複の児童生徒に対する教科書製作は考えられないものなのだろうか」という問題提起があり、事務局で検討するということでしたが、当センターとして1人か2人しか求めない学術専門書を結構製作していることから、そのような教科書製作も考えてもいいのではないかと思った次第です。

 また開会式に引き続き開かれた全体会では、福岡盲、柳川盲、北九州盲卒業生の3人が「今後の盲学校教育に期待すること」というテーマでそれぞれ提言されました。耳新しいことではありませんが、改めて聞きますと、なるほどと共鳴せざるを得ないことばかりです。主幹校のご了解を得て、お3方のレジュメを転載します。昨年の札幌大会の全体会では保護者4人からの提言でした。涙なくしては聞かれませんでした。いずれも盲学校に対する期待を力説しております。盲学校の教職員や関係者は謙虚に受け止めていただきたいものです。後で高等盲の秋吉教頭先生にうかがったのですが、同校では福島さんが問題提起されたことは「ビジネス教養コース」として、週90分間専門家を招いて指導しておられるそうです。私たちは見よう見まねのできないことが致命傷ですから、各盲学校では形はどうであれ実践してほしいものです。

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第11回「専門点訳者実践養成講座」応募要項

主 催:社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター

 この講座は「中央共同募金会」並びに「読売光と愛の事業団」からの助成と杉並区からの後援を受けて実施します。

1.【目的】
視覚障害大学生ならびに専門職にチャレンジする人や専門職に従事する人たちのテキスト、学術書、参考書、専門書などを正確かつ迅速に点訳する人たちの養成を行う。

2.【応募資格】
日本語点字をマスターしている人で、希望講座の分野にそれなりの知識を有する人(「日本語基礎を除く」)。「日本語基礎」については、点字をマスターしようとする人で、必ず受講終了の際には通信教育の応用編に進むことを原則とする。

3.【会場】 開講式…阿佐谷地域区民センター
各講座…社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター会議室

4.【講座の内容・時間数・講師】
 (1)日本語基礎
   20時間(全10回) 橋本京子(視覚障害者支援総合センター職員)
 (2)日本語応用
   20時間(全10回) 染谷洋子(日本点字図書館)
 (3)音楽
   20時間(全10回) 坂巻明子(視覚障害者支援総合センター職員)
 (4)英語
   20時間(全10回) 乙川利夫(国立身体障害者リハビリテーションセンター教官)
 (5)理数
   20時間(全10回) 田中仁(慶應義塾大学非常勤講師)

5.【各講座の日時】 P.3〜の「各講座の日時と講師」参照

6.【開講式】
<日時>10月3日(木)13:00〜17:00
<場所>阿佐谷地域区民センター 第4・5集会室
(杉並区阿佐谷南1-47-17 TEL 03-3314-7211)
    ・開講あいさつ(理事長 高橋 実) ・担当講師より各講座の説明
    ・講演:「点字技能士に期待する−点字の普及と資質の向上を目指して」
        日本点字図書館 理事長 田中 徹二氏

7.【申込方法・締切】
別紙「申込書」に必要事項を記入した上、受講したい講座を○で囲み、必要事項を記入の上、郵送またはFAXにて9月15日までに(当日必着)お申し込みください。
(重複受講は差支えありません)

8.【定員】 各講座 15名以内

9.【受講者の決定】
定員をオーバーしない限り、締切までに申し込まれた方へ郵送にて9月20日までに通知いたします。

10.【受講料】 
無料。但しテキストなど教材は実費。尚、各講座テキストの他、受講者で「点字表記辞典 改訂新版」「日本点字表記法 2001年版」を持合わせていない方は購入願います。

11.【受講の義務】
(ア)「視覚障害者支援総合センターを支える会」に入会する。会費は年間一口5千円以上(同封の支える会会則参照)。会費およびテキスト代は開講式で受付けます。
(イ) 受講者は開講日および開講式によほどのことがない限り欠席しないこと。

12.【その他】
(ア)「点字をマスターして近い将来戦力者になりたい」という希望をお持ち   の方で遠方の方または日程の調整がつかない方などは、「日本語通信教育」の制度を設けておりますのでお申し出下さい。
(イ)テキスト教材は開講式で販売いたします。

不明な点は、社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター
(TEL 03-5310-5051)へ

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新紙幣3種の識別マークに意見聴取

 2004年から流通する千円、5千円、1万円の新紙幣につけられる視覚障害者用識別マークを視覚障害者に触ってもらい意見を聞いてほしいと、財務省印刷局はサンプルを日盲連に示しております。日盲連はできるだけ多くのユーザーに見てもらいたいと、私が会議で日点におじゃました折も、川畑さんがサンプルをもって来ておられました。そのためかロビーに点字に精通していると思われる数人の人がおりました。私は時間がありましたので、木塚さんと一緒にサンプルを見せてもらいました。

 川畑さんが机に置かれた千円、5千円、1万円は棒線と点の組み合わせで、千円は点の下に横に棒線、5千円は点を挟んで上下に棒線、1万円はL字型の棒線で、それぞれ表面の左右の下隅に記されており、5千円と1万円には「ホログラム」(表面がつるつるしている)が付いています。
 木塚さんは流石に理論的に点や線の高低など、3種8パターンについてきめ細やかに悪さ加減をコメントしていましたが、私は全くの感覚でイエス・ノーを言いましたが、少なくとも私の周辺は、「あれじゃ、これまで同様、バリアフリーにはならないね」と吐き捨てるように言っておりました。

 20年前だったでしょうか。「識別マーク」が当事者である視覚障害者のコンセンサスを得ないままスタートして批判囂々だったことを思い出します。役人はそれに懲りてか、今回は日盲連に「意見を聞いてほしい」とサンプルを持ってきたまでは良しとして、マークが依然として視覚障害者の立場を理解していないことに、憤りさえ感じました。この後に木塚さんが日盲連を通して出した意見書を掲載しますから、如何に役人というものはナンセンスなことに頭とお金を使うかを理解していただきたいと思います。

 私は木塚さんのように理論立てては言えませんが、いずれにせよお金は使う物で、机の上でじっくり確認するものではありません。やりとりをしている時、他の紙幣やコインと比較して判断するような悠長な物でもありません。「はい、5千円」と言って渡された時、とっさに「これは5千円だ」と分からなければ用は為しません。受け取って台の上に置いてマークを探していては、相手はいなくなるかも、というよりこの世知辛い世の中、待っていてくれるほどの善人はいません。それに縦横何ミリというのも、すぐの役には立たないと思います。私は紙幣見分け板というのを貰って財布に入れていますが、それは五5千円と1万円の仕切に使っています。前述しましたように、いちいち見分け板を出して縦横を比べているようなゆとりはあり得ないのです。

 これも私の悪い癖なのかもしれませんが、「よく誰にでも財布を預けて」と呆れられもしています。私はお金を払うときは、一緒にいる人に財布を預けます。そして家なり職場に戻ってから紙幣とコインの整理をして、きちっと棲みわけをしています。それでも私がお金を払う時など、「これは違います」と言われ、恐縮したり有り難がったりしています。

 私はこれまでに2度紙幣を間違って貰ったことがあります。先方は勿論視覚障害者ですが、私のように人任せをする人ではなく、立派に自立した人ばかりです。紙幣の大きさが領収書と同じで、帰ってから見て貰いながら棲みわけをしていて気が付きました。2回とも領収書でしたので、相手も分かり、それぞれ笑って済みました。その時も話し合ったのですが、紙質が紙幣より厚いかなあという感じでした。ですから、縦横だけではなく、紙質も指に覚えさせておかなければならないのだと思います。

 視覚障害者にとって今のようなマークでは、時には相手に不愉快な思いをさせたり、それが困じて信頼関係を失ったりしないとは断言できません。それに些かオーバーな表現かもしれませんが、見える人たちが偽札を一瞬にして見分けられないのと同じ位に大変なことだということを、関係者は考え合わせて識別マーク作りに対応していただきたいものです。

 たまたまその折、同席していた共用品推進カードシステム班の方が、ほぼ全面にわたり縦線、横線、縞模様にした3枚のサンプル紙幣を見せてくれました。これであれば受け取る瞬間、指に触れた棒線で理解できると私は思いました。しかし我が日本のお役人は「これでは見苦しい」とか「厚ぼったくなる」とか言って検討材料にも入れないと思います。

 「どうせお前は人の目と手を借りているのだから、関係ない。率先して役人がいやがることを言うことはない」と囁かれているようです。「ピンポーン」です。

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鳥居伊都賞を次子がいただきます

 昨年、私は鳥居篤治郎賞を受賞し感激しました。その余韻も醒めやらぬ今年、今度は家内の次子が鳥居伊都賞をいただくことになりました。何はともあれ、これ全て支えて下さっている皆さまのお陰と思い、心からお礼を申しあげます。

 私もそうだったのですが、率直に申しあげて次子が伊都賞を受賞するなど、喜ぶよりも恐縮しております。推薦のお話があった折も、「身に余ることで分不相応である」として、特に本人は強くお断りしておりましたので、今回受賞が決まったという時も辞退するかどうか2人で随分話し合いました。次子いわく「私はセンター職員として働いてきたけれど、一定の年になれば若い職員の自覚と意欲を削いではと思い、定年退職して一線を退きました。そして今は午後のお茶の時間にだけ伺って、センター発足時から物心両面でお力添え下さっているボランティアの皆さまに、感謝の気持ちを汲み取っていただければと思いご挨拶しています。皆さまの足下にも及ばない程のことしかできていない、そんな私が、あのようなご立派な奥様の賞をいただくなど、おこがましいにも程があります」。

 私も全く同感でしたが、「高橋さん、奥さん、両方の賞をもろうてくれたかと言って、天に召された先生ご夫妻が喜んで下さっている。私たちが、事ここに至ってまで、なんだかだと言うのは、ご夫妻に恩を仇で返すようなことになってしまう。喜んでいただこう」という身勝手な決断をいたしました。

 鳥居先生(1970年9月11日)、奥様の伊都さん(1994年9月28日)が亡くなられるまで、私たちは公私ともにお世話になりました。ご夫妻のことを私がとやかく申しあげるのは野暮なことですから差し控えます。先生がご健在の頃、奥様は陰になり日向になり先生を支えておられました。またよく「実さんはええ。次子さん、こっちへ来てくつろごう」なんて周囲の人たちにも気を配っておられたことは忘れられません。私は「鳥居賞とこの賞を受けられた方の顔に泥を塗るようなことだけは慎みたい」と思ってきましたが、家内も同感だと思います。ただ、伊都賞の第1回は、来る9月11日鳥居賞を受けられる、前ライトハウス理事長玉中修二さんの奥様、第2回はバイオリニスト和波孝禧さんのお母様、そして昨年が聖明福祉協会本間理事長の奥様です。このような方の末席に名を連ねられるということは幸福者です。私たちは2つの賞を与えて下さった皆さまの期待に反しないように、これからも微力を払って参りますので、何卒宜しくお願いいたします。重ねてお礼申しあげます。

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新紙幣触覚識別に対する意見

木塚泰弘(静岡文化芸術大学デザイン学部生産造形学科教授)

 紙幣を触覚で識別する場合、ユーロの紙幣と同じく、縦横の長さを全て変えるのが最も効果的である。感覚は、視覚、聴覚、触覚共にウェルナーの法則通り絶対値ではなく比で識別率が違う。現行の紙幣のように長軸が5ミリの差であるより短軸が5ミリの差の方がはるかに識別しやすい。

 しかしながら発行予定の新紙幣では、短軸(縦軸)の長さが一定であるので、2千円札と5千円札の2ミリの差や5千円札と1万円札の4ミリの差は、重ね合わせて比較しない限り識別できない。また、2千円札の上面の凹版印刷は、触感として判り易かったが、今回全ての札につけられるとすれば、ざらつきとしての識別も不可能となる。そのため、左下右下の識別マークのみが頼りとなる。この場合、現行の透かしと凹版印刷の盛り上がりを重ねれば、高さ0.1ミリ程度となり、識別しやすいが、紙の透かし刷りと凹版印刷を正確に重ねるのは技術的に難しいと思われる。

 点と線の組み合わせの場合、線が単純な直線であるより、3点の直列「点実線」の方が、触覚識別の刺激が強くなり、結果として直線と感じる。
 もうひとつの考え方として、2千円札が点字の「に」であったから、それにあわせて千円札は点字の「せ」、五千円札は点字の「ご」(この場合は2マスにまたがる)、1万円札は点字の「ま」とするのも考えられる。尚、点字を知らない人の場合でも、触覚図形としての識別は可能である。

 いずれにしても、凹版印刷の0.04ミリ程度では、触覚が鋭敏な人でなければ識別できない。また私は2千円札が発行されて以来、4つ折にしてカードに挟み財布に入れたままで耐久実験をしているが、新札の時より識別し難くなっている。もし、しわが寄ったり、識別マークの上で折れ目が入ったりした流通紙幣の場合は、触覚識別は現行の透かしタイプでも二千円札の凹版印刷タイプでも識別困難になっている。

 そこで、どうしてもユーロの紙幣のように、短軸(縦軸)の長さを変えられないのであれば、凹版印刷の触覚識別は新札には多少有効で、無いよりましである、という評価を受けることになると思われる。

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全日本盲学校教育研究大会における提言

テーマ:卒業生の立場から今後の盲学校教育に期待すること

本当の意味での障害者の社会参加とは

岩田耕作(チェンバリスト、ピアニスト)
(プロフィール)
福岡県穂波町出身。福岡盲学校小・中学部、筑波大学附属盲学校高等部音楽科卒業。1993年よりベルギーのブリュッセル王立音楽院チェンバロ科、1995年よりフランスのストラスブール音楽院古楽科、ならびに作曲法科、1999年よりトゥール音楽院ルネッサンス音楽科に在籍。
 ブリュッセル王立音楽院にてチェンバロと室内楽のプルミエ・プリ、ストラスブール音楽院にてチェンバロと作曲法の金賞を受賞。
チェンバロを小林道夫、橋本ひろ、ロベール・コーネン、アリーン・ジルヴェライヒ、バス・コンティニューをマルタン・ジェステール、作曲法をオディール・シャルベ、マルク・アンドレ、ルネッサンス即興演奏法をフレディー・アイシェルベルジェ、ドゥニー・レザンダドゥル、ルネッサンスボーカルアンサンブルをブルノー・ボテールの各氏に師事。
 2000年日本に帰国。
 現在福岡を中心に東京、名古屋などの各地で演奏活動を、また福岡でルネッサンス音楽(合唱、器楽アンサンブル)の定期講習会の講師や、チェンバロや声楽のプライベートレッスンなどの音楽指導をおこなっている。

 障害者が雇用や、あらゆる社会活動への参加において健常者と同じ機会が与えられるべきであるというのは、民主主義社会においては、当然のことといえるでしょう。また、障害の種類に応じてある程度のケアーを受ける必要もあります。
 しかし障害者であるということに必要以上の同情を求めたり、障害を理由にその能力を多めに見てもらおうとする考えは、障害者を本当の意味で健常者と平等な一個人として認めていることにはならないのではないでしょうか。
 とかく人々は障害者を、障害を持っているということによる先入観を持って、その人の人格を判断し、時には同情し、時には差別する。障害者1人1人をそれぞれ異なった個人としてではなく、「障害者」という1人種のようにとらえがちである。もちろんそれは健常者側だけでなく、障害者側にも問題がある。
 もしここに同じレベルの障害を持つ音楽家と、健常者の音楽家がいるとします。このとき音楽家としての二人の評価は同じであるべきであって、けして障害を持つ音楽家の方が優れているわけではありません。もちろん障害者が健常者と同じレベルに達するには、より多くの努力が必要になることでしょう。
 しかしわれわれ障害者が社会に通用する技術や能力を身に付けるには、障害を持つことになった運命を悔やむより、障害を持っているという現状を受け入れ、目標に向かって何をしなくてはならないかを考え、また、常に自分自身の能力を客観的に評価することを忘れないことが大切なのではないでしょうか。

今、盲学校に望むこと

福島朗子
(プロフィール)
昭和38年、福岡県田川郡香春町に生まれる。昭和45年、福岡県立北九州盲学校(北九州市八幡東区)小学部に入学。同校の中学部、高等部に進学し、昭和59年高等部専攻科理療科を卒業。あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の免許を取得する。在学中は、学校に隣接する社会福祉盲児施設北九州市立洗心学園より通学する。
 卒業後、特別養護老人ホーム望学園にマッサージ師として就職する。平成4年、結婚のため退職。平成6年、北九州市立点字図書館に、点字校正員として就職。現在に至る。ご主人と盲導犬サワーとの3人?暮らし。

 昭和45年私は、盲学校の小学部に入学をしました。それから卒業までの15年間、いろんなことを学んだはずですが、何一つ身についていないような気がします。私にとってただ一つの収穫は、点字が読めるようになったことです。小学部3年の時、はじめて「ピノキオ」を読んだことをよく覚えています。
 そんな私が、卒業をして問題となったものは、1つはコミュニケーション、もう1つは日常生活、特に料理でした。専攻科理療科を卒業後、私は老人ホームに就職をしました。そこでは戸惑うことばかり。はじめての人、しかもたくさんの晴眼者の中で、どんな風に人と接したらいいのかがまったく分からず、怖くて1週間で働く自信がなくなってしまいました。それでも月日がたつにつれ、このまま負けてはいられないと職場では何とかやっていきましたが、もう1つ、今度は結婚という大きなできごとにぶつかってしまいました。学校時代も、就職してからも、自分の手で料理をつくるという経験はほとんどありません。家庭科の授業で、調理実習はしたはずですが、残念ながら何一つ身についていませんでした。
 これまで、私も社会に出て、多くのことを学び経験をしました。たくさんの人にも出会いました。そんな私が、今盲学校に望むことは、一般的な教養だけでなく、社会に少しでもスムーズにとけこむためにも、生徒達に早くからいろんなことを経験させてあげて欲しいということです。たとえば、人との接し方。子供の頃から外部の人と接する機会を多くもつことができたら、またどんどん外に出て道に迷い、その中で人に尋ねるということを覚えたら、私のような苦労はしないですむと思います。その他にも生活に密着したこと、たとえば箸の正しいもち方、食事をする際の姿勢、アイロンのかけ方や服のコーディネイト、メイクの仕方、テーブルマナー等等。こういったことは早い時期に体で覚えるものだと思います。晴眼者の人は、人のやっていることを見て覚えることができます。でも、私達視覚障害者はそれができません。言葉で説明を受けただけでは、理解できないこともたくさんあります。それを実際に手をとって教えてもらい、経験を積むことによってできることがたくさんあります。この子には、無理だろうとか、多分見えないからできないだろうという風に、そんなことは周囲が決めつけるものではないことです。知っていてできないことと、知らなくてできないことでは大きな違いがあります。どの子も学校を卒業して社会人になるということを考えて教えていって欲しいと思います。

臨床家として思うこと

小西恭博
(プロフィール)
昭和11年(1936年)10月生まれ。はしかのために3歳で失明した。当時は、障害者は、就学猶予や免除の制度があり、学校へ行くこともできなかった。しかし戦後、視覚障害者と聴覚障害者の義務教育化がなされ、昭和23年(1948年)健常児より5年遅れて、福岡県立柳河盲学校に入学した。そして、当時の超級制度によって、小学部は4年間で卒業した。昭和35年(1960年)専攻科を卒業し、はり、きゅう、マッサージ師の免許を取得。卒業後治療院に就職したがうまくいかず、3ヶ月で退職した。その後すぐに自宅の一室で開業した。3年後現在の場所に新築移転し現在に至る。 
 現在、福岡県立柳河盲学校同窓会会長、甘木市はり、きゅう、マッサージ師会会長、社会福祉法人福岡県盲人協会理事、その他福祉関係の役職についている。

 私が盲学校の生徒時代は、はり、きゅう、マッサージが盲人の唯一の職業と思い、何の抵抗もなく専攻科を卒業し免許を取得した。専攻科2年の臨床の経験から考えて、開業すれば患者は来てくれるものと思っていた。しかし社会はそんなに甘くはなかった。自分なりに努力し勉強はしたものの、1日5〜6人の壁を破ることができなかった。そこで先輩や後輩に誘われて研究会を発足し勉強に励む。その結果卒業後15年目にして一人立ちできたように思う。私の経験から、今の盲学校の理療科教育では厳しい現実を生き抜くことは難しいと考える。そこで、何とか盲教育関係者、特に理療科の先生方に考えて欲しいと思い、体験発表をする気持ちになった。
 現在のはり、きゅう、マッサージ業界は大変厳しい状況にある。規制緩和の下で鍼灸師養成学校が次々と誕生し、4〜5年先には国家試験受験者が現在の2倍以上に増えるものと思われる。その上に整骨院や医療機関等での安い料金による治療、また単なるサービスによる治療が行われている。しかしそういう中でも、優秀な技術を有する施術者は以前と変わらない治療実績を上げている。現実は厳しくても技術さえあれば、はり、きゅう、マッサージは盲人にとって最も適した職業であり、夢と希望を持つことができることを生徒に教えて欲しいと思う。
 私は、福岡高等盲学校の創立に合わせて、附属施術所の設置を要望。生徒の技術を伸ばすには、指導者の技術向上以外にないと考えたからである。生徒が夢と希望を持って学習に取り組む環境を作って欲しいものだと願っている。
 南米や東南アジアの盲人は、以前は職業も無く悲惨な生活を送っていたが日本盲人会連合や、理療科の先生方のマッサージ指導を受けて、今ではマッサージを職業とし、生活は徐々に改善されてきている。日本では以前からはり、きゅう、マッサージを職業としていたので、安定した生活を送ってきたが、先に述べたような実情で患者は減少し、障害基礎年金に頼らざるをえない盲人が増えている。私はこれからは1人1人の技術を向上させていくことこそが重要であると思う。視覚障害者が真の技術を身につけられる方法を是非考えて欲しい。私の体験発表がその参考になれば幸いである。

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