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2003年8月20日発行 第40号 社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター

支援センターだより

皆さまへ

 私は、職員にいつも「センターを出てセンターに来るまでの間、何とはなしに時間に流されているのではなく、センターにとって役立つ知恵(発想)を出すように」と話しています。よく「退社してからまで仕事のこと考えるのはナンセンスだ」なんて言われる人もいますが、今の時代、センターのような後発で零細小規模施設ですと、よほどのユニークな事業展開をしなければ仲間内からは無視され、社会からも見放されてしまう憂き目にあうといっていますが、職員はどこまで共感してくれているか?です。皆様の一層のご支援とお力添えをお願いいたします。

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出版記念会を10月に

 「一年の計は元旦にあり」ではありませんが、私は例年たくさんの方のお力添えを当てにした目標をいくつか立て、仕事始めで職員やチャレンジの通所者にもその心積もりを訴えるのが常です。今年もいくつかの事業を考え、予想できなかったほどの大多数の皆様のご支援をいただきながら、着々と進行中です。改めて関係者に御礼申し上げます。

 その1つは、視覚障害をもつ女性の生き様を書いていただき、単行本として社会に送り出したいという企画です。確かに時代の趨勢で視覚障害者にとっても比較的暮らしやすい世の中になっているかと思います。私も大学は東京でしたが、卒業するまで一人歩きをしていました。たぶん歩行訓練などといったものもなかったように思います。「プラットホームから何回落ちたかが盲人の勲章」だなんていう人もいますが、1950年代で2度転落した経験があるだけですが、外出していて「こんなところをよく1人で歩けるものだ」と感心しきりです。ましてや出産、育児の主人公である女性はどれほど街がバリアフリーになっても、肝心要の理解と心のバリアがなくならない限り、大変さはついてまわると思います。

 恋愛、結婚、出産、育児、職業、社会参加とプライバシーに関わることがほとんどですから、書いていただくことなど無理とは思いながら、社会啓発とその上センターの運営資金をと思い、日本点字図書館理事長の田中ご夫妻をはじめ、視覚障害女性3人にも加わってもらい、企画をスタートさせました。執筆者も20人近くの方を考えましたが、最終的には14人の方のご協力が得られました。また、障害者理解でも知られています作家の澤地久枝さんが「まえがき」を書いてくださることになり、感謝しております。また、表紙はイラストレーターでも知られているエムナマエさんがお引き受けくださいました。活字版は博文館新社を通して広く皆様にお買い求めいただきたいと思っております。

 このほか、『視覚障害者のための交通アクセスブック―手と足で見る生活地図(仮題)』も丸紅基金の助成を受けて、製作の運びになっています。これは東京ディズニーランド、東京ディズニーシー、ユニバーサルスタジオジャパンなど誰でもが1度は遊びに行く施設、東京ないしは大阪の大手盲人福祉施設などへのアクセス方法などをまとめたものにしたいと思っております。

 もう1点。「視覚障害者の職業問題」に関わる単行本を年度内に編集作業に入れればと思っています。

 今回ご案内の「チャレンジ賞」と前回の「サフラン賞」、それぞれの授賞式を10月18日(土)午後3時から5時半までの出版記念会の席上行う予定です。両賞の選考委員には、日本盲人福祉委員会の笹川理事長、日本点字図書館の田中理事長、KGS株式会社の榑松社長、日本キリスト教盲人伝道協議会の阿佐主事、元財団法人東京サフランホームの山村常務理事、同高木理事、それに私の7人で9月初旬、選考委員会を開き受賞者を決めさせていただく予定です。

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本間一夫先生の訃報に接して

 ここ1年ぐらい、機会あるごとに「本間先生の米寿を祝う会をどんな形ででも開きたい」と勝手に賛同者を募っていました。その先生がこんなに早く天に召されるとはゆめゆめ考えていませんでした。8月1日午後1時半ご自宅でご長男夫妻に見守られて大往生されたそうです。10月6日が誕生日ですから、あと2ヶ月で88歳を迎えられたわけです。そんなこんなでさびしく残念で仕方ありません。今はご冥福をお祈りするのみです。
 先生については、いまさら私が申し上げなくても皆様よくご存知でしょう。1940年日本初の盲人図書館をご自身がお持ちの700冊で開館されたそうです。私はその5年後、読者になり『フランダースの犬』を最初に借りて読みながら、感激したことを覚えております。

 先生は増毛出身で私の故郷妹背牛とは40〜50キロしか離れていないのですから、私が三療が不得手で他の仕事につきたいといって4年近く路頭にさまよっていたときに、私が幼稚っぽくて先生に相談するということに気がつかなかったとしても、学校の先生などがなぜサジェッションしてくださらなかったのか、今もって不思議です。従って私が先生にお目にかかったのは1953年大学進学の準備で上京した折の秋でした。それ以来半世紀、公私ともにお世話になりました。当時の日点で私が先生とお話した部屋は和室で背中も両横も棚にみっちり点字本が立てられていて、何か背もたれといった感じでしたし、先生は点訳されたものを見ながら相手をしてくださったように思います。

 5、6年前だったと思いますが、先生は「高橋さん、センターの今は日点の戦後から1952年朝日社会奉仕賞(30万円)を受けるまでの状態と同じようなもので、何とかそこを切り抜けるためにがんばってくださいよ」などと激励してくれました。先生と私、日点とセンターを同じ土壌で比較するなどは言語道断であることは百も承知ですが、それにしても先生の懐の深さを感じ、とても力付けられました。

 1958年春、卒業前に先生ご夫妻に仲人をしていただき、結婚して日点近くにアパートを借りました。就職浪人が決まって生活費を少しでも切り詰めるために風呂も電話も先生宅で使わせていただくためでした。ジャーナリストを目指して、岩手盲で4年間、大学での4年間、夢をつないできました。また、ジャーナリストを意識して結婚もしました。しかし、先生にご一緒していただき、新橋の第一ホテルに宿泊中の点毎の編集長をお訪ねして、再度即点毎入社を懇願しましたが、「今は定員枠もないし、その見通しもつかない」といわれ、地獄の底に落ちていくような何ともいわれぬ心境になった折も、先生は「高橋さんは記者に向いているし、絶対入社できる日が来るから逃避しちゃだめだ。目的を実現するまであなたを応援するから2人でがんばりなさい」といわれ、その言葉にすがる思いで東京での浪人生活を始めました。

 1960年待望の点毎に入社して私たちは東京を離れましたが、先生は度々「高橋さん、ここが誤字脱字だ」とか、「あのような有名な人の名前の読み方が違う」「こんなニュースが落ちているよ」などと電話をくださいました。その翌年、文月会(3年後「日本盲人福祉研究会」と命名)を結成し、先生に会長をお引き受けいただき、約30年間私を引き立ててくださいました。その間若い人たちから「本間・高橋体制は政治性もなく、改革資金も乏しい」と殴り込みをかけられたり、突き上げをくったりしましたので、その都度先生には申し訳ないと思ったものです。

 今回も私は金沢市で開かれていた全日本盲学校研究大会に参加していて、1日夜自宅に戻って先生の訃報に接しました。2日の朝、JBS日本福祉放送が2時間の特番を組みたいのでその司会を通してやってほしいという依頼も「先生のことでは出来不出来に関係なく、お断りすべきではない」と考え、岩上館長、直居元副館長、元文京盲の竹村教諭らと話を進めながら、先生の人柄と1974年に亡くなった喜代子夫人のことなどを振り返りました。先生の密葬は近親者を中心に6日午後、柏木教会で行われましたが、奥様も同じ教会で、またお二人とも8月に亡くなられました。先生は1日、奥様は10日です。

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点字人口と点字離れを同一視できない

 私は点字大好き人間ですから、点字本の少ないことをいつも嘆いています。先日、点字出版助成のお願いに行った折のことです。「点字離れと点字人口の激減、パソコン機器の活用で、高額でかさばるといわれている点字本製作は検討の余地があるのではないか」という意味のことを先方の人が話されました。その人はこの世界では知られており、いくつかの施設に助成もしてくださっている団体の責任ある人です。私は相も変わらず学術参考書や問題集は点字を読める人なら絶対に必要だし、需要数で決められるものではなく至極残念だと申し上げ、先方の人も理解してくださいました。

 そんなこともあって、私はその助成の必要性を訴えるために次のような数字を並べました。平成14年1年間に出された活字新刊本は日本書籍出版協会の調べでは、72万4259タイトル、日盲社協点字出版部会事務局の調べでは、点字出版書は204タイトル、459巻です。この比較はいうまでもない格差ですが、この点字本の中で当センターは46タイトル339巻です。タイトル数では22.5%、巻数では73.8%です。当センターが社会福祉六法全97巻と新訂標準音楽辞典全88巻を出していますから、巻数ではこのようなパーセンテージになるわけです。

 ただ、点字出版施設は日盲社協加盟施設だけでも29あり、その中でも大手が半分近くあるのですから、何とかならないものかと思う私です。当センターでは今年度も『新版 社会福祉士養成講座(第2版)』全118冊と『改訂 介護支援専門員基本テキスト』全40巻(予定)と『国家公務員採用試験―過去3年間の問題とその解説』全60巻(予定)を入力・校正中です。国家公務員問題集は9年間点字化しながら厚労省に何とか一部を助成してくれるよう懇願していましたが、全くその気がないため、宣言どおり昨年は取りやめました。偶然でしょうが、1991年以来続いていた受験者が今年はゼロでした。受験者からは「何とかしてほしい」「仕方がないので、数年前のものでも構わない」などと言われては、出さないわけにもいかなくなる私です。「介護」にしても、「社会福祉士」にしても、法律が変わったのでと何人かの人から言われて、これまた無謀が執念を動かしてしまいました。後になって資金のやりくりで走り回っているという実態です。

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「チャレンジ賞」制定要項

[賞の名称] チャレンジ賞
[主催] 社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター

[趣旨]
 視覚障害者の暮らしと生活はますます厳しくなっております。職業にしても戦後間もなくまでは、三療(鍼・灸・按摩)は盲人の伝統職種だとか優先職種だとか適職だとかいわれ、事実、三療業に携わる人の8〜9割までが盲人でした。しかし、社会情勢の変化などもあって職業選択の自由が叫ばれ、三療業へのいわゆる晴眼者の進出が激しくなり、盲人の職業環境は一変しました。
 最近は、規制緩和、バリアフリー、IT革命、欠格条項の見直しなどによって視覚障害者の職域は広がるかのように思われますが、それらを保障しバックアップする制度も不完全で、まだまだ個人の犠牲によるところ大です。
 そのような悪環境の中で未来に夢を託して努力している若者や、今はばたこうとしている若者を公募によって毎年1人選び、みんなで支えあい激励できるような取っ掛かりになればと思っています。

[対象]
視覚障害のある身体障害者手帳所持者で、いわゆる若い男性。

[候補者の公募方法]
 候補者は自薦他薦を問いませんが、職業自立して視覚障害者の文化の向上と福祉増進に寄与しようとしている人、あるいは、これから職業自立してはばたこうとしている人で、気迫と体力と人間味のある人、1名。

[応募期間]
平成15年7月10日(木)〜8月29日(金)

[選考・決定]
選考は、当センターが委嘱する委員7名で構成した委員会で、9月初旬に開催する選考会で受賞者を決定。9月末日までに受賞者に通知するとともに、センター発行の雑誌『視覚障害』と『支援センターだより』で公表し、マスコミなどにも関連記事の掲載を依頼します。

[表彰]
賞状と賞金50万円 副賞としてKGS賞〔BrailleMemo BM16〕

[表彰式]
10月18日(土)『しなやかにしたたかに―視覚障害女性の生き方』の出版記念会の席上にて行う予定です。

[応募用紙の申込み先と問い合わせ]
  社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター
  〒167-0043 東京都杉並区上荻2-37-10 Keiビル
  TEL 03-5310-5051  FAX 03-5310-5053
  E-mail:mail@siencenter.or.jp

チャレンジ賞制定までの経過について

社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター
理事長 高橋 実

 「サフラン賞」制定までの経過についてご説明申し上げました折、最後の方で以下のようなことを記しました。『私は今、サフラン賞の「女性版」に対し、「男性版」も結実させることができればということで、行く先々で訴えています。実は、私が鳥居賞をお受けした折、その祝賀会を関西でも開いてくださいました。その折、若い人から「功なり名を遂げた人たちに対しいろいろな賞は贈られるが、若い人でこれから努力してくださいというような励ましの賞を、先輩、作ってください」と言われたことを今も忘れられません。賛同してくださる方がいますので、詰めていき実現させて「視覚障害の世界は高齢者が目立っている」というような何とも言えないことばを払拭していきたいと思っている、今日この頃です』。

 たまたま、KGS株式会社の榑松武男社長に前述のようなお話をしましたところ、「男性とか女性とかということではなく、視覚障害者のいわゆる若い人たちが努力すれば報われるような環境作りに当然努力しなければなりません。それと同時に、その人たちを励まし支えていくことは大賛成です。弊社は去る6月11日創立50周年を迎えることができました。皆様に感謝の気持ちをこめて基金を出させていただきましょう」ということで、賛同してくださいました。また、名称は私の無謀と執念で当センターに併設しております、「チャレンジ」であすの職業自立を夢見て汗しています通所者の目標にもなってくれるであろうことを期待して、「チャレンジ賞」としました。

 チャレンジ賞、サフラン賞ともに無限に継続されることを祈るとともに、榑松社長をはじめ関係者の皆様に感謝の意を表します。

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「学ぶこと働くことを求めて―視覚障害を乗り越えて」藤野高明さん、センターで講演

所長補佐 橋本京子

 去る6月26日、センターでは大阪の藤野高明さんに来所いただき、講演をしていただくチャンスを得ました。今秋発刊になる雑誌『視覚障害』11月号の企画への協力のために上京され、日点の創立者で惜しくも先日お亡くなりになられた本間一夫先生を取材された帰りの、お立ちよりでした。
 私たち職員・利用生一同は、この日のボランティアさんと一緒に総勢30人近くで、藤野さんが障害を負われた1946年当時のことから大阪で教員生活を終えられた現在のことまでのお話をお聞きすることができました。

両手指、両眼を失う
 藤野さんが障害を負われたのは、戦争が終わった翌年の夏、生まれ育った九州福岡県のご実家近くで起こった事故によってでした。小学2年生だった藤野さんは、近所の友達と外で遊んでいた折、小さな金属製のパイプのようなものが辺りにたくさん落ちているのを見つけ、皆で競うように拾い集めました。銀色のそのパイプの正体は危険な不発弾だったのですが、そうと知らない藤野さんは、弟さんと一緒にそれらをきれいに洗い、干し、翌朝、更に筒の中もきれいにしようと釘でパイプの中をいじったところ、突如それが爆発。弟さんは腰から下がなくなった状態で即死、藤野さんは両手指と両眼の視力を無くされました。

新しい文字との出会い
 この時から20歳までの13年間、日にちにして4750日間、藤野さんは学校に行けませんでした。1度に4つ、左目右目左手右手を無くしたことを悔やみ、よく泣いたそうです。偶然それまで通っていた小学校が福岡盲学校の隣であったことと、おばあさんが按摩師で、目の見えない人の話や点字のことを話していたので、藤野さんは盲人と点字については知っていました。見えなくなった藤野さんはご両親と何度か盲学校の門を叩いたのですが、学校からは「手が無くては按摩も出来ないし点字も読めない」と断られ、結果、就学免除という形を強いられたのです。その状況を抜け出すきっかけとなったのが、18歳の時、入院先で読んでもらった北条民雄の『いのちの初夜』でした。この筆者はらい病で若くして亡くなるのですが、この本の中には彼と同病で視力と手指を無くした人が唇や舌先で点字を読む様子が描かれていました。藤野さんは、手指無しに点字が読めるなどということが信じられず「表現しがたい感動」が迫ってきて、「心がしびれた」「心に響いた」とおっしゃいました。

文字の獲得は光の獲得
 「自分にも読めるんじゃないか」と考えた藤野さんは、病院で友達になった盲学校の生徒から点字を教わり始めました。点字の形を覚えること自体は、時間を要さなかったけれど、唇で読めるようになるまでが問題だったとのこと。ザラザラとツルツルは分かるけれど、形までは判読できない。古い本より点のハッキリしている新しい本が良いと、その彼は新しい教科書をもって来てくれ、藤野さんの挑戦が始まりました。何度も何度も試みて、やがてザラザラの中に読みとれた言葉が「あい(愛)」。形が単純な点字である上に、聖書の通信講座の教科書だったので「愛」という言葉がたくさん出てきたのだそうです。「文字の獲得は光の獲得だった!」「文字を持つことで何かが出来ると思った!」

 書くことには、また別の困難がありました。藤野さんは右腕が左腕に比べて短いので、左腕と合わせて点筆を持つと背中が疲れて痛くなる。それでも練習を重ね、やがては17行32マス(通常の点字1頁分、活字にすると約300字)を1時間で書けるようになったのです。

講演会でのこと 点字を読む藤野さん
 ここで藤野さんは、ご自身で用意された1冊の点字本を取り出しました。
 「ちょっと読んでみます。」 
 本のタイトルから始まったその朗読は、唇で点字を読みながら声に出されたものでした。手指のない両の腕で本を口の前まで持ち上げ、唇を点字に当てて。読みスピードは至って普通で、1ページ目を終えると、口でページを繰りました。ページをめくる音に、利用生が「おおっ」とざわめきました。朗読を終えて藤野さんは、「音読しながらだと口が踊ってしまって文字がつかみづらい。でも音読でなければ1ページ2分とかからないです」とコメントを付されました。

就学を果たし、盲学校で得たもの
 話は戻りますが、そのようにして点字の読み書きをマスターした藤野さんは、受け容れてくれる学校を見つけるまでの紆余曲折を経て、20歳の時、大阪市立盲学校中学部の2年生に編入が叶いました。
 藤野さんは、盲学校で2つのものを得たとおっしゃいました。1つ目は、同世代の同じ視覚障害を持つ仲間と多く出会えたこと、2つ目は、すばらしい先生方に出会えたこと。特にその後者について、中でも全盲女性で能力、才能、努力ともに秀で「手の届くロマンを示してくれた」先生がいらっしゃり、この素敵な先生との出会いがとても大きかったと。この先生をはじめ、色々な先生方との出会いが、この後、藤野さんの心を教職の道へ駆り立てたのです。

 大学への進学を希望した藤野さんですが、当時はまだ一部の学校でしか点字使用者への門戸開放が進んでいない時代。ですから二重のハンディを負う藤野さんに試験を受けさせてくれる大学など無く、やむを得ず、藤野さんは障害を隠して日本大学の通信課程を受験しました。結果、史学専攻の学生証を手にしたのですが、「学生証を貰ったときの感動、所属を勝ち取るという素晴らしさ」について力を込めて話されました。「障害者の辛いことは社会から排除されるということです。」寂しい社会風潮を前に、一つの存在許可証を貰ったわけですから、その嬉しさは一入だったことでしょう。

 <教職に就いて
 5年半の大学生活の後、念願の教員免許状を手にした藤野さんは、点字受験の認められた大阪府教員採用試験を高校社会の世界史で受験し、見事に合格しました。しかし採用の段階になると、受け容れ先がないと本採用は見送りに。結局1年間は非常勤講師として教壇に立つことになりました。藤野さんは諦めず、再び採用試験を受けたところ、2度目も合格。ようやく大阪府立盲学校で教員として採用されるまでに漕ぎ着けました。
 以来、定年を迎えられた昨年3月までの30年間、盲学校教師として思いを果たされ存分に取り組んでこられた藤野さんは、自らの教員生活について「世界史という人間の歴史を生徒と一緒に勉強でき、いつも生徒の青春と自分の職場が一致していた」と大観され、また、「(自分が)健常者であっても社会科の教員をしていただろう」とおっしゃいました。そして「目の見えないこと、両手がないことを本当に嫌だと思っています」と、憚りながらおっしゃられたのでしたが、その後に「障害は不幸だけど不幸なだけじゃない」と力を込められました。
 「野球で言えば、失点が多くてもそれ以上の得点があれば良い。子ども達にとって、とり返しの付かないことなど何もない。いつでもやり直せる。ただし、例外が2つ。それは他人を傷つけることと自ら命を絶つことです。」
 藤野さんの心に引っかかるのは弟さんのことだそうで、確かに弟さんは命を奪われ、何も取り返せなかったのです・・・。

 <昭和21年当時と今の日本の違いから
 話が前後しますが、藤野さんは講演の冒頭で、事故当時の日本と現在を比較して、2つの違いがあるとおっしゃっていました。1つは、日本は「戦争をしていた」ということ。2つには、「当時は差別の許される時代であり、障害者は厄介者としての生活を強いられる社会であった」ということ。
 藤野さんはご自身の歩みを振り返られ、「時代に恵まれた」と言われました。「出会った人と時代のお陰で、教員生活を送ることができ、自身の障害を克服しているのかもしれない」と。“自分は障害者である前に教師という天職をもった一人の人間で、地道な努力ができたことで、職を全うできた”という自信と達成感、真っ正直な強さと気迫、そして、ひたむきな努力を重ねてこられた人のもつ内なる輝きと、そこから広がる大きな存在感に呑まれたのは、私だけではなかったことでしょう。

 法の下の平等はもとより、バリアフリーの概念が一般化し、情報技術の発達で快適な生活を送ることができる今日を生きる私たちですが、藤野さんの1時間にわたる貴重なお話に、“未来は無限で、これから何でも出来る!”と励まされ、“挑戦して見なさい!”と背中を押された思いもしました。

 終わりに、お忙しいところ長時間にわたり立ったまま熱の籠もったお話しをしてくださった藤野さんと、爽やか且つ快活なご挨拶で最後を飾って下さった同行の古谷あや子さん(グループともしび)に、この場をお借りし、厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。

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チャレンジ通信

 今年度チャレンジは定員を15名に拡大し、4月に3名、さらに7月に2名、新たな通所者を迎えました。理事長の創設時からの「高レベル、高賃金」そして一般就労を勝ちとってほしいという願いが、今後もますます反映されていくことになります。
 その一方で、ロビー販売や街頭募金活動を通して地元杉並の皆さまを中心に、地域住民の理解を得ていきたいと考えております。

杉並区役所でロビー販売7/8、15

初めて販売に参加したHさんの感想

 お金の計算が苦手なので不安でした。やっているうちに徐々に渡すことができて良かったです。自分にとって良い経験なのでこれからもがんばりたいと思います。
 ――毎月第2、3火曜日に好評販売中です!

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